寒天の始まり『寒天ものがたり』
日本で発明!?寒天誕生
ところてんは遣唐使の時代、現在の中国から日本に伝わり、1200年も前から食べられていた記録があります。そのところてんを乾燥させたものが「寒天」です。その寒天ができたのは江戸時代でした。
1658年頃のある冬のこと、京都の旅館『美濃屋』の主人・美濃屋太郎左衛門(みのやたろうざえもん)はところてんを外に置き忘れてしまいました。ところてんは夜中の寒さで凍り、日中の日差しで溶けて水分が抜け、気が付くと干物のようになっていました。
それを見た太郎左衛門はその干物のようになったところてんを煮溶かし、冷やし固めてみます。すると、いつものところてんより匂いがしない、透き通ったところてんが出来上がりました。この干物が「寒天」です。
なぜ寒天というの?
では「寒天」という名前はどこからやってきたのでしょうか?
これには隠元隆琦禅師(いんげんりゅうきぜんじ)が関係してきます。
隠元隆琦禅師は現在の中国から日本に帰化(きか)し、京都の宇治で黄檗宗(おうばくしゅう)を開いた高名な僧です。当時日本に伝わってきたばかりだった、いんげん豆を命名したことでも有名です。
ある日、隠元隆琦禅師は、寒天を食べて「仏家の食用として清浄、これに勝るものなし」と褒め称えます。できたばかりで名前がないと知り、中国で「冬の空」や「寒冬」を意味する漢語の「寒天」にその製法から「寒晒心太(かんざらしところてん)」の意味を込めて「寒天」と命名したと言われています。※名前の由来は諸説あります
京都から信州へ
関西地方で製造されていた寒天の技術を信州に伝えたのは、諏訪の行商人、小林粂左衛門(こばやしくめざえもん)でした。1840年頃、丹波(現在の京都、兵庫辺り)で寒天の製造法を見た粂左衛門は、「これは雪や雨が少なく乾燥気候で、冬が長く寒さが厳しい南信州(現在の諏訪地方)の農家の副業にぴったりだ!」と思い、この製法を学んで持ち帰りました。はじめ、原料となる海藻の天草は大阪方面から買っていましたが、やがて伊豆から買うようになります。
信州の寒天づくりが大きく発展したのは明治38年(1905年)、中央本線の開通でした。原料の運搬がしやすくなったことは言うまでもありませんが、なにより天草や寒天の運賃がそれまでの約6分の1になったことが発展に拍車をかけ、やがて寒天は信州の名産品と呼ばれるまでに成長していきました。
寒天の医学への貢献
寒天と細菌研究
1881年にドイツのロベルト・コッホは病原性細菌 (びょうげんせいさいきん)研究についての論文において、ゼラチンを使った培地(ばいち)を考案しました。しかしゼラチン培地には2つの欠点がありました。1つ目は細菌の種類によってはゼラチンが分解され溶けてしまうこと、2つ目は37℃の恒温培養器(こうおんばいようき)ではゼラチンが溶けてしまうことでした。
この問題を解決したのはコッホの研究室に所属していた医師ウォルター・ヘッセ夫人のアイディアで「寒天」を使うというものでした。彼女はアメリカ生まれのドイツ人で、フルーツゼリーを作るときに使う寒天を培地に利用するということを提案しました。
その後、ジャカルタ(インドネシア )から寒天を購入して作った寒天培地によるヘッセ医師の研究は順調に進みました。1882年にコッホが発表した結核菌の短報の中で寒天培地について触れられています。これにより寒天培地の存在は世界的に知られることとなり、飛躍的(ひやくてき)に細菌培養の精度が向上し近代医学の発展に貢献しました。コッホは1905年に結核菌に関する業績でノーベル賞を受賞しています。まさに寒天はノーベル賞の影の功労者だったといっても過言ではありません。
ペニシリンの発見
その後も寒天培地による研究は進み、1928年にはイギリスのアレクサンダーフレミングが寒天培地を用いた実験でペニシリンを発見するなど医学への貢献は続きます。細菌研究にとって重要となった寒天は、第二次世界大戦中には戦略的意味合いから日本政府により輸出入禁止品目となります。欧米諸国では日本産の寒天が手に入らなくなり、工業的に粉末寒天を製造する方法が発展することにつながりました。
寒天と遺伝子研究
また遺伝子工学の分野でも寒天が活躍しています。1962年にはワトソン、クリックらがDNA構造を発見しノーベル賞を受賞しています。遺伝子工学研究にも寒天の構成物質であるアガロースは網目上の分子構造を持っており、その網目を利用して核酸(DNA)の分離が行われます。
近年ではバイオテクノロジーや、歯科、化粧品などにも用いられ、世界中で活躍(かつやく)しています。また寒天の量産による価格と供給の安定、品質管理の徹底によって和菓子やゼリーだけでなくヨーグルトや洋菓子など様々な食品が使われるようになりました。